コラム

2020/3/3
新型コロナウイルスと「集会の自由」

加藤 良太

新型コロナウイルス感染拡大により、この時期にイベントを行うことの多い市民社会(NGO・NPOなど)でも、集会・イベントの中止・延期が増えている。筆者も、出席予定のいくつかの集会・イベントが中止・延期になった一方、そのまま開催される会議もある。この時期のイベントの主催者となったものは、開催の意義・必要性、開催で生じるリスクの程度、主催者としてのリスクへの対応能力、これらを勘案しながら悩ましい決断を迫られることになる。

一方、市民社会の中からはこんな声も聞こえる。「政府・自治体の要請や世間の自粛ムードに流されていないか」「開催の意義やリスクを十分検討せず、安易に中止・延期を判断していないか」。人が集まって語らうことは、市民社会の基本であり根幹であって、「集会の自由」は市民社会の生命線でもある。いかにウイルス感染のリスクがあろうと、人が集まることや共に語らうことが自由にできないことへの違和感、政府や社会が作り出した自粛ムードという圧力への危機感、これらを勇気をもって表明するのは、市民社会の健全性を示すものともいえるだろう。言い方を変えれば、集会の自由を含む「市民社会スペース」への圧迫に対して、市民社会自身のセンサーがしっかりと働いている、ということでもある。

しかし、そうした批判の矛先が直接、個別のイベント主催者の具体的な判断に向くのは、今回の場合、いささか厳しすぎるようにも思う。こうした伝染性の疾病の場合、最終的なリスクの代償は一人一人の健康によって払われることになり、それを考えると、イベント主催者はどうしても保守的な判断をせざるを得なくなる。でも、その中で強いて市民社会としての「意地」を示すとすれば、やはり開催の意義・必要性の中に「誰かのいのち・尊厳の問題」が含まれいて、それが待ったなしであるとき、どんな圧力があっても、リスクへの十分な手当ての上で断固として集会を開催する覚悟をもつ、そういうことであろうか。

新型コロナウイルスの問題はまだ終わりが見えず、その社会的な影響の広がりも十分に見通せない。しかし、その影響の中に、市民社会にとって大切な集会の自由、ひいては市民社会スペースへの圧迫の問題も含まれうることを意識しながら、それぞれの活動・団体の目的の先にある「大切なもの」を守るために、日々活動していきたい。